ベルリンの思い出
西ベルリン到着
ツォー・ロギッシャーガルテン駅(ツォー駅)に初めて降りたのは、1987年3月8日のことだった。ドイツは東西に分かれ、ベルリンの壁も健在。ヴィーンから列車を乗り継いで、ニュルンベルグからベルリン・オスト行きの列車に乗り、当時東ドイツに囲まれていた西ベルリンに行った。
地球の歩き方などを読んでいると、「ツォー駅で降り損なうと、次の駅は東ベルリンであり、簡単に戻って来れないので、決して降りる駅を間違えないように」という記述があり、かなり緊張してホームに降り立った。深夜に国境越えの検査があり、どきどきしながら通過ビザをもらい、ライトで煌々と照らされた国境地帯を越えて東ドイツ領内に入たのを眺めた記憶も、緊張を高めていた。
間違いなくツォー駅だとわかり、ホッとしていると、昨晩ニュルンベルグで声をかけてきたオランダ人の若者がまた声をかけてきた。彼とともに今晩の宿を探し、彼が現地の人に英語で「エクスキューズミー・サー」と声をかけて、いろいろ聞いてくれて、結局、一晩だけユースホステルに泊めてもらえることになった。そうか「サー」か、こうやって尋ねるのだなと、このとき学んだ。
早速ユースホステルに行くと、同じ部屋に日本人が5、6人いて、ほっとした。当時はヴィーンに比べると、西ベルリンに来る日本人旅行者は大変少なかった。
私はこの日の晩のベルリンフィルの演奏会を聴きたかったので、次にフィルハーモニーに行った。このときもオランダ人が付いてきて、いろいろ聞きまわってくれて当日券を買うことができた。彼には大変お世話になったのだが、その後はユースホステルでは同室の日本人とばかり話をしてしまい、翌朝も私が気が付いたときには彼がすでに部屋を出たあと。ちゃんとお礼を言えず、大変後悔した。
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ベルリンフィルを聴く
夕方、再びフィルハーモニーに行き、モーツアルトのピアノ協奏曲25番とブルックナー交響曲6番のプログラムを聴いた。指揮者は当時の日本ではピアニストとして知られていたクリストフ・エッシェンバッハ。ピアノは誰だったか忘れてしまった。私の席の場所は"PodiumLinks"とあり、"H"の入り口から入ると切符に書いてあるので、行ってみると、オケの後ろの合唱団の座る席。長椅子で、空いてるところに座るようだ。
前半のモーツァルトではさすがにピアノの音がよく聴こえず、最悪だったが、演奏中に会場を眺めていると、立って聴いている人がいたので、休憩後のブルックナーでは私も立って聴こうと決めた。
休憩時間に会場内をうろうろしていると、日本人の若いかわいい女性と会った。他に日本人らしい人を全く見なかったので、お互いに「あっ」という感じで、すぐに話をした。同じ合唱団席の券を持っているそうで、後半のブルックナーは一緒に立って聴きましょう、ということになった。何処に立っていいのかわからないので、適当な入り口から入って立って聴いた。確かAブロックの最後列。見渡すと、私たちのほかに立って聴いている人は見えなかった。長いブルックナーだから当然か。
こんなところで立って聴いていいのかな?と思いつつ、ブルックナーが大好きだった私は、ベルリンフィルのオケの響きに浸りながら大変楽しく聴いた。特に変なこともせず、素直な指揮だったことを覚えている。ベルリンまでやってきた甲斐があったというものだ。
会場であった女性とカフェでお話
演奏会後は、お会いした女性とカフェでお話した。女性からは、留学している友達のところに遊びに来ていること、しばらく滞在していたのに、コンサートがあることを知らなくて、昨日あわてて室内楽を聴いたことなどを伺った。
「ブルックナーは楽しめましたか?」と聞くと、「素直で面白かったですよ」とおっしゃった。私は、ブルックナーと若い女性とはどうも結びつかなかったので、こんな質問をしたのだが、何故かちょっとホッとした。
しばらくお話して、遅くなったので、カフェを出てお礼を述べて、ユースホステルに帰った。結局、名前も住所も聞かなかったが、聞いていてもよ かったかもしれない。演奏もすばらしかったけれど、かわいい女性と一緒に音楽を聴けてお話ができたことも大変いい思い出だ。
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東ベルリンへ
翌日は、東ベルリンに行った。私はヴィーンでチェコスロバキアとハンガリーのヴィザを取っていたので、東ドイツにはトランジットで入国した。ただ、トランジットの場合は、「地球の歩き方」によると、チェックポイント・チャーリーから徒歩で入国できず、ツォー駅からSバーンに乗って次のフリードリッヒ・シュトラッセ駅で降りて入国審査を受けなければならないとのことでしたので、ツォー駅に向かった。
当時、東ドイツに入国するには1日あたり25マルクの強制両替が必要だったが、トランジットの場合には不要だった。私は、事前に西ベルリンの銀行で20マルク札1枚を6.6DMで買っていた。強制両替では1:1で両替させられるので、随分助かった。ただ、入国時にマルクを持っていることがばれると没収され、罰金まで取られるそうなので、しっかり隠しておいた。
さて、ツォー駅からSバーンに乗り、列車の窓から南北に連なるベルリンの壁と緩衝地帯を高架から眺め、すぐにフリードリッヒ・シュトラッセ駅に到着。高架のホームから地上に降りると入国審査があり、高い位置にある窓口にパスポートを差し出して「トランジット」と言った。上を見上げると鏡があり、入国審査官から申請者の体の後ろや足元が見えるようになっていた。しばらくして、ばん!とスタンプを押す音がして、トランジットヴィザとともにパスポートを返してくれた。
その後は、通関、強制両替だが、通関では、何もないと言うとすぐに通してくれて、強制両替では、座っているおばちゃんにトランジットビザを見せると、「あっちへ行け」というようなしぐさをされて無事通過。駅から出て、晴れて東ベルリンの地に立つことができた。
東ベルリンの印象は、西ベルリンに比べると建物がくすんでいて、走っている車もクラシック。なんとなくタイムマシンに乗って急に一時代前に戻った感じだ。
東ベルリンでの行動
私は、まず、荷物を預けるのと、プラハ、ブタペストからオーストリア国境までの切符を買うために、プラハ行きの列車が出るリヒテンベルグ駅に行った。「地球の歩き方」によると、鉄道の切符を買うとき、東側では東側のみの区間の切符を買うほうが安くすむということだった。リヒテンベルグ駅までの道程は結構遠く、Sバーンで片道30分くらいかかった。荷物を預けて、行列に並んで切符を買ってアレキサンダープラッツに戻ってくるともう午後二時ごろで、貴重な時間をつぶしてしまった。
東ベルリンでは、西ベルリンからも良く見えるテレビ塔に上った。高層ビルなど近代的な町並みが広がる西ベルリンと、低層の建物が細かく密集している東ベルリンとの違いが明確だった。また、ベルリンの壁の様子も良くわかった。
夕食は西ベルリンのユースで一緒だった日本人5、6人と一緒にステーキを食べた。強制両替のお金を使い切るには高価な食事を取るぐらいしか方法がなかっのたのだ。私も20マルクを使いきる必要があった。でも、肉は硬く、野菜のピクルスも大変すっぱくて、東側の食事事情が少し分かったような気がした。
最後、ウンター・デン・リンデンを歩いて行けるところまで行き、遠くにサーチライトに照らされたブランデンブルグ門が眺められるところで記念写真を撮った。た。チェックポイント・チャーリーから西ベルリンに戻る他の皆さんと分かれて、私は独りになった。これから、プラハ行きの列車が出る0:30まで時間をつぶさなければならない。
リヒテンベルグ駅へヒッチハイク
まず、フリードリッヒ・シュトラッセ近くの高級ホテルに行ってロビーでのんびりした。「地球の歩き方」によると、外国人は、ロビーでのんびりしてもかまわないらしい。21時頃になって、そろそろリヒテンベルグ駅に行くかとUバーンの駅に行くと、もう電車がない!ビックリして、次に私がとった行動はヒッチハイク。
結構すぐに、若いお兄ちゃんが運転するトラバントが止まってくれて、リヒテンベルグ・バンホフとお願いすると連れて行ってくれた。一応手には5DM硬貨を持っていたが、駅についてダンケシェーンと言っただけで降りた。今でもその時の5DM硬貨を持っているが、渡しておけばよかったなあと、その硬貨を見るたびに思う。
後でわかったのだが、そのとき、Sバーンは動いていたので、そちらに乗ればヒッチハイクなどする必要はなかったのだ。私も若かった。北海道でヒッチハイクの経験もありったし。でも、大変助かった(^^;
駅で預けていた荷物を受け取り、ベンチに座ってトマスクックの時刻表を見て、乗る列車を確認した。そのときに気が付いたのだが、乗ろうと思っていた列車に「全席座席指定」のマークがある。駅の切符売り場ももう締まっているし、乗せてもらえるだろうかと不安で、どきどきしながら列車を待った。
リヒテンベルグ駅からプラハへ出発
列車が入線し、ホームに行って列車に乗り込んだが、ほとんど人が乗ってない。これは楽勝かなとは思ったが、数少ない乗客に6カ国語旅行会話集を開き「この席は空いているか?」の場所を指差して確認すると、お前にはこのたくさんの空席が見えないのか?という反応をされた。まあいいかと、同じコンパートメントの隅っこに座ると、その人は空いてる別のコンパートメントに移動した。
列車が走り出して、車掌が検札に来たが、何事もなく検札終了。ホッとして、眠りに就いた。